アトピー実体験ストーリー
前書き
生まれた時からアトピーだった僕はその時から病院にお世話になっていました。とにかく近くで治ると評判のところへ行きダメなら次へというように転々と病院周りをしていました。
しかし結局はアトピーは快方に向かうことはなく、母親ももう半ば諦めたのでしょうか?
あるときからその病院回りもしなくなり、ひとつの病院に通院するようになりました。そしてその病院も結局アトピーを治すことができない病院だったわけで現在の僕がいることになります。
今回はそのやりとりを含めたお話にしたいと思います。それと今回も小説っぽい口調になります。です・ます口調じゃないってことですね。
本編(皮膚科医はごXみ)
まだ暑さの残る季節。学校帰りで、またいつものように母親に手を引かれ病院の門をくぐった。
もうこれで何件目になるだろうか。僕は幼いころから治ると言われてきた皮膚科医を訪ねては診断を受け同じような薬を処方されて、また転々と。治らない日々。いつものように母親に手を引かれ、これで5、6・・・もう数えるのもめんどくさい。
どうせ治りっこないから。
もう小学校5年生にもなろう頃なのに幼い頃と比べて何一つ状況は変わっていない。逆に着々と発疹範囲が広くなっていって悪化しているのではないだろうか?
こんなことを考えながら長い病院の待ち時間を耐えてやっと先生とご対面。予想通り、大した先生ではなさそうだ。今までの先生より年齢が若いだけ。
僕に対する質問もこれまでの質問とさほど変わりはない。
- いつからアトピーだったのか?
- どこが一番痒いか?
- 薬は何を使っていたか?
淡々とそれに答えてあとは母親と雑談で終わる流れだった。時間にして問診5分、母親との雑談20分・・・やたら待ち時間の間に診察室から聴こえてくるあの笑い声はこの雑談だったというわけだ・・・まじでふざけんな。
当然雑談に時間をいくら割いてもアトピーが治るわけがない。
だからこんな無駄な時間のためにお金を払わせている病院が嫌いなんだ。
治らないなら治らないとはっきり言ってもらったほうがまだ潔い。それを明確にはせず、薬を使っていれば、いつかは治るようなことをいって唆しているのだ。
笑ってごまかすという言葉をこんな公共な場所で使っていいのだろうか?そしてそれに気づかない親もどうかしてる。
逆にその雑談ですっかり先生に好印象を持った親はそこを気に入り、病院を変えようとはしなかった。まんまと”営業”に引っかかったわけだ。
まあ僕にとってはどこも同じようなところだと思っていたし自宅から近い場所なこともあり大した文句も言っていない。(今現在、そこにずっと通院して10年以上になりますが未だにアトピーが治らない自分がいます。)
痛すぎ!水泡つぶしの刑
ある日、アトピーの症状が重くなり水泡が全身に現れたため、いつものところに行った。
先生「何か普段とは違うような生活をしましたか?」
僕「いいえ、思い当たりません」
先生は真剣に頭を悩ませ(たふり)、こう口にした。
先生「ピンセットで潰しましょう」
僕「えーーーーーーーー!?」
そんなの怖いし、かなり痛そう、いや絶対痛いに決まっている。
僕「いや、薬で治せないんですか?」
先生「潰して消毒してからの方が良く効くんだよ」
僕は渋々了承をした。
そのあと、水泡を潰されるたびに悲鳴を上げたのは言うまでもない。鬼だ悪魔だくそ医者だ。確かに水泡は早く治まったが、果たしてそれが本当に最善の策だったのかは今でもわからない。
そんな痛い思いをしたにも関わらず本質のアトピーは治っていない。結局はそういうこと。痛い思い出だけが残っただけ。
悪化のサイクル
それから何回か通院し、月日もだらだらと過ぎていき数ヶ月が経つ。その頃になるともう薬をあれこれ変えるようなことはしなくなっていた。処方箋の説明にはしっかりと薬の扱いについての注意がきがしてある。
”長期間の使用は控えること”ってね。
ずっと同じ薬で用法用量も変わらない。典型的な、間違ったステロイドの使い方をしているのだった。当時はそれが間違った使用法だと思っていなかったので生活の一部としてごく当たり前のようにそれを取り入れていた。
しかし医者はその事実を隠ぺいしていた。治るはずのない薬を出し、いつかは治ると示唆する。もう皮膚科医の存在意義は皆無だと思ったね。
それでも薬を使っていた理由はそうせざるを得なかったから。アトピーの方であればわかるはず。来診すると先生にまたお前かみたいな顔をされ問診を受ける。
そんな態度も気にならなくなっていた。ただ薬をもらうためだけの目的で病院に行くのである。はっきり言って医者なんかの面談はなくていい。結局は同じ薬を処方するのだから。
問診の時間はそれでも僕のアトピーの症状を見て悩んだ(ふり)姿を僕に見せていた。
いや、もういいからそんな猿芝居。
はやく薬だけ渡してくれ。こんな茶番劇を毎回繰り返しながら、最後に薬の入った袋を手に提げて、虚しく帰るのであった。